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白石市立福岡中学校3年 佐々木未敏
私の家は農業を営んでいて、田植えや稲刈りなどの時期は私も手伝い親戚の人も集まり年齢関係なく皆で行います。これまでの私はそんな風に家族とずっと一緒にいることがあたりまえだと思っていました。でもそのあたりまえは突然なくなってしまうものだと気づかされました。
私の祖父は多系統萎縮症という難病を患っていました。小脳が縮んでいき、ろれつが回らなかったり、筋肉が固くこわばり、歩行や起立が不安定になったりする病気です。
そんな祖父の介護を私も家族と一緒にしていました。できるだけ以前と同じことができるように、排泄やお風呂の介助、着替えの手伝いなどを行いました。
私が中学一年の頃になると家で祖父が転んでしまうことが多くなりました。祖父が私の名前を呼ぶと、私はすぐに祖父のもとへ行き祖父の体を起こして、座らせていました。祖父の介護をすることに疑問はありませんでしたが、体を起こすために体勢を変えるように伝えると、足を痛むことを理由に「俺はできない」と言う祖父にだんだん私もイライラしてきて、強い口調で当たってしまいました。
また、親戚たちと祖父、そして私や家族で会話をしていると、祖父のろれつが回らず、相手が聞き取りづらいことがありました。祖父はそれを見て、何度も声に出して、必死になって気持ちを伝えようとしましたが、そばにいた私たちも祖父の言いたいことを聞きとろうとするのをあきらめ、会話を見守ることしかできませんでした。やっと通じても祖父は疲れているように見えました。
そんなある日、祖父の体調に変化がありました。数日間熱が出て、急きょ入院しました。その後、退院したものの施設に入ることになり、祖父の症状は確実に悪くなっていきました。私がお見舞いに行くと、祖父は話すことが全くできなくなっていて、私の手を強く握り、私の手に文字を書く動作をしていました。何か伝えたいことがあったんだと泣きそうになりました。あの時、祖父が言いたかったことは何だったのかと思いながらも、中々会うことができない間にお別れになってしまいました。
私は、強く後悔しました。祖父に強い口調で当たってから、会話があまりできなかったからです。思い返してみると、私以外の家族が祖父と関わるとき、おもしろいことがあれば、祖父も私たちと一緒になって笑っていました。祖父が亡くなった後も、口を開けば祖父の話になっていたことに気づきました。私も家族も何気ない祖父との思い出がたくさんありました。
中学三年になって忙しいこともあり家族との会話の機会は減りました。でも、ご飯中や夜にテレビを見ている時間など、その日にあったおもしろかったこと、嫌なことなど、コミュニケーションを取ることは自然と続けられていました。話すうちにおもしろくてずっと笑っていたような気がします。
そんな日々を過ごしていくうちに気がついたことがあります。それは、家族はあたりまえにいるのではないということです。会話だったり、手伝いだったり、そういう関わりを毎日、積み重ねていくことで、家族との仲が深まっていくのです。自分のことを話すくらいどうってことないから、家族と正直に話してみたらいいのではないかと思います。話しにくいときでも「ただいま」や「おかえり」、「いってらっしゃい」や「いってきます」の少しのコミュニケーションを取ることができます。そういう何気ない言葉で私たちが家族の支えになったり救われたりすることだってあるのです。だから家族はなくてはならない大切な存在だと思っています。いつかではなく今。家族との関わりを大切にたくさん話してみてはどうでしょうか。そうすればきっと家族と何でも言いあえる関係を築くことができると私は思います。
私はこれからも、家族との関わりを生活の一部として過ごしていきます。いつも一緒に笑い合える家族を目指して。
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