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更新日:2024年8月22日

令和6年度「札幌市平和訪問団」派遣報告

「平和へのメッセージ」優秀賞受賞者6名(小学生・中学生・高校生各2名)で長崎県を訪問し、戦争や原爆について学んだ平和学習の成果を、令和6年8月15日に札幌駅前通地下歩行空間で開催した「札幌市平和のつどい」において報告しました。

派遣先

長崎県

派遣期間

令和6年8月7日(水曜日)~8月9日(金曜日)

派遣者

令和6年度「平和へのメッセージ」優秀賞受賞者6名(小学生・中学生・高校生各2名)

札幌市平和訪問団の旅程

月日 内容
8月7日(水曜日)

朝、市役所に集合。市役所から新千歳空港へ。

新千歳空港から福岡空港へ向かいました。

福岡空港到着後、長崎市内に入り、長崎歴史文化博物館を見学しました。

長崎歴史文化博物館2長崎歴史文化博物館1

8月8日(木曜日)

午前中は、長崎原爆資料館を見学し、午後は青少年ピースフォーラムに参加し、被爆体験講話を聴き、原爆落下中心地などを見学しました。

青少年ピースフフォーラム長崎原爆資料館

8月9日(金曜日)

最終日は午前中に平和祈念式典(出島メッセで中継参加)に参列した後、福岡空港に向かいました。福岡空港から新千歳空港へ。新千歳空港から市役所へ戻り、解散となりました。

平和祈念式典

「札幌市平和訪問団」長崎派遣報告内容

令和6年8月15日に札幌駅前通地下歩行空間で開催した「平和のつどい」において、平和訪問団が報告した内容を掲載します。

戦争を知らない私が長崎で学んだ平和

報告者:縄乃々香さん(資生館小学校5年)

私は何故戦争が起こったのかもまだ学校で習っていません。私が知っているのは戦争はたくさんの人が亡くなるということだけでした。そんな私が8月7日から9日まで札幌市の平和訪問団の一員として長崎へ行きました。

1日目、私たちは長崎歴史文化博物館を訪問しました。そこでは、長崎が日本の歴史の上で、海外と交流する重要な場所だったことを学びました。長崎の人たちは昔から色々な国の人や文化を受け入れてきたのだと思いました。2日目、ピースフォーラムに参加し、実際に原爆の被害に遭われた方からお話を聞かせていただきました。少し耳の聞こえづらいおばあちゃんが優しい声でこう話してくれました。「私は原爆が落ちた時、山の上にいたので直接大きな怪我はしませんでした。しかし、目に見えない放射線はしっかり浴びてしまいました。その後、不調でお医者さんにかかった時に、あなたは病名の分からない病気にばかりかかって可哀想と言われました。今でも薬は10種類以上飲んでいます。」と、今もまだ原爆の被害で苦しんでいることを教えてくれました。この話を聞いて、原爆の恐ろしさは目に見えるものだけではなく、生きている限り長く続くのだととても恐ろしく思いました。3日目、私たちは平和祈念式典に参加しました。式辞の中で、長崎市議会の毎熊議長が、「長崎を最後の被爆地に」と2回言っていたことが印象に残りました。戦争は二度と起きてはいけないし、原爆を絶対に使ってはいけないという強い願いが込められていると思いました。そして私は、他の参加者の皆さんと、たくさんの犠牲者が眠るこの場所で心から平和を願い祈りました。

戦争を知らなかった私は、長崎の派遣で戦争の怖さを直接聞き、目で見ました。私は戦争は国と国が起こすのだと思います。けれど違う国に住む人たちと本当に分かり合えないのでしょうか。私の学校にも、習い事にも、違う国のルーツを持つ友達がいます。挨拶をして一緒にさまざまなことを勉強する仲間です。けんかをすることもあるかもしれません。しかし私たちは話し合えます。おいしいものを食べたり遊んだりできます。違う文化を持っている人達と一緒に人生を楽しむこともできます。なのに、今この瞬間にも地球上のあちこちでは争いが起き、分かりあえるはずの人たちの命が失われています。未来の希望であるはずの子供達の命も簡単に失われてしまいます。戦争は絶対に起きてはいけません。戦争を知らない私ができることは、何も知らなかった私のような子供達に私なりの言葉でこの経験や思いを伝えることだと思います。

忘れないようにつないでいく未来

報告者:吉田じゅんさん(新琴似小学校6年)

1945年8月9日11時2分、長崎に大きな原爆が落ちました。それは人々の家族、財産、日常、笑顔、全てを奪い去って行き、困惑と絶望の叫びで埋め尽くしました。長崎に原爆が落とされて79年が経った今、戦争への関心が薄れていっているように感じます。家族とご飯を食べている時、友達と一緒に遊んでいる時、これを話している今でも原爆が落ちる可能性があるのです。本当にこのままで良いのだろうかと思い、核兵器を保有している国を無くすためにどのような考えが残っているか、私たちにできることは何かをよく考えながら2泊3日を過ごしました。

特に印象に残ったことは2日目の原爆資料館と青少年ピースフォーラムです。原爆資料館には、主に原爆が落ちたことによる様々な被害や、体験した人の伝えたい想いが展示してありました。爆風で曲がった固い鉄骨、熱線で表皮が焼けただれてしまった人、変わり果ててしまった街を呆然と見る人、それを見て私はただショックを受けました。自分もこうなっていたかもしれないとすごく怖い思いを持ちました。青少年ピースフォーラムでは、実際に被爆した方のお話を聞きました。燃えてしまった街をぼうっと見つめていた、その時どんな気持ちで見ていたんだろう、そう考えると胸が痛かったです。

世界には核兵器禁止条約というものがあります。核兵器の開発や使用することを禁止する条約です。ですが、核兵器を保有する国はその条約に入っていません。これが問題だと私は思います。この問題は私たちに解決できないものだと思いますか?私はそうは思いません。長崎の人々があきらめずに何年もかけて今の素敵な街を作ったように、私たちも諦めさえしなければきっと平和な未来をつないでいくことができるはずです。もう2度とあの過去を経験する人がいなくなるように、私はずっとこのことを伝えて、核兵器のない世界を作っていきたいと思います。

知ることが平和への第一歩

報告者:上瀧奈央さん(藤女子中学校3年)

私はずっと戦争という過去から目を背けてきました。なぜなら、知れば知るほど怖くなり、不安に押しつぶされそうになるからです。過去を知ることは大事だとわかっていながら向き合えない、そんなモヤモヤする気持ちを抱えていた時、この平和訪問団への参加の機会が与えられました。これは今まで目を背けてきた弱い私に課せられた使命なのかもしれないと思い、日本で起こったことをきちんと知り、向き合うという決意を胸に長崎へ向かうことにしました。

2日目に訪れた長崎原爆資料館では、爆風により脚が曲がった給水タンクや、浦上天主堂の再現模型など、原爆投下後の長崎の惨状が再現され、熱線でやけどを負った人や亡くなった方の写真などもたくさん目にしました。私の想像を超えた原爆の破壊力と悲惨さがそこにはありました。なぜこのような悲惨なことが起こってしまったのでしょう。同じ人間同士がこんなにも苦しみ、傷つかなければならなかったのでしょう。資料館には、長崎に落とされた原子爆弾の実物の模型も展示されており、約3mほどの大きさでした。この1発の爆弾であの破壊力なのに、今では威力が増し小型になっているそうです。しかも世界中に核兵器として使用できる核弾頭は、1万発をはるかに超える数があると言います。核兵器は破壊しか生み出しません。戦争も同じ人間同士が傷つき苦しむだけで何も生みだしません。しかし、今また世界ではロシアによるウクライナ侵攻が行なわれ、パレスチナでは戦闘が続いています。日本は今は平和です。でも隣国と沢山の問題を抱えています。世界情勢や政治の問題は平和を考える上で重要なはずなのに、私たちの世代では話題にすらあがりません。私たちには関係ないと見て見ぬふりをしている今は、過去と同じ過ちを繰り返してしまう危険をはらんでいるように感じます。時代の波に飲み込まれないために私たちができることは何なのでしょう。まずは以前の私のように過去から目を背けている人や過去の出来事に関心のない人にきちんと知ってもらうことです。過去に起きた現実をきちんと知る事が平和を考える第一歩だからです。

長崎の小中学生は8月9日は登校日です。平和について考える日だそうです。北海道では、どれだけの人が平和祈念式典を視聴したでしょうか。被爆地だけでなく、これからを担っていく日本中の若い世代も、原爆が投下された8月6日と9日、そして終戦記念日の今日、平和について考える日にしていってほしいと思います。私も被爆地で訪問し学んだことを周りに伝えたいと思います。

最後に、知ることが平和を考える第一歩ですが、知って終わりではなく、次につながる平和への道を考え探し求め続けることも大切です。私の「平和へのメッセージ」にも書きましたが、未来は私たちの選択で変わります。核兵器を根絶し、戦争のない平和な世界にするためにみんなで正しい選択をしていきましょう。

被爆者が恐れるものは

報告者:中川美利さん(屯田北中学校3年)

「今の世界は過去の苦しみなど忘れつつあるように見えます。私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。」これは、長崎に落とされた原子爆弾により背中に大きなやけどを負った谷口稜曄(すみてる)さんが生前口にした言葉です。私は、この言葉を聞いて、平和についてもう一度考え直しました。

過去を忘れないかぎり平和な世界の実現は可能です。ただ過去が忘れ去られてしまった瞬間、それは不可能になります。被爆者の方々は皆、悲惨だった過去を忘れ去られることを恐れています。私たちは過去を知り、心に記憶として残しておく必要があるのです。私は過去を知っているつもりでした。学んでいるつもりでした。でも実際、私は何もわかっていませんでした。それを被爆者の松尾幸子さんのお話を聞いて実感しました。幸子さんは、長崎に原爆が落ちた後、山の上からひとりでぼうっと焼き尽くされた街を眺めていました。その時、目の前に頭から足まで血にまみれた男性が現れました。それは幸子さんの父でした。私はその話を聞いたとき、自分が同じ状況になったら耐えられないほど悲しい、そう思いました。でも幸子さんは違いました。幸子さんはその時、嬉しかった、生きていてくれて良かったと言いました。私は、まだ原爆が落とされた時の現実も人々の想いも理解できていなかったのだと思い知りました。

原爆投下から79年が経った今、被爆者の平均年齢は85歳を超えています。原爆が落ちた時の音、光、死体がごろごろと転がっていた街も、希望が見えず真っ暗だった当時の想いも、鮮明に残った過去の記憶を持つ大切な方々がいなくなってしまいます。私は長崎に行ってから、この現実にとても焦りを感じています。ですが、そんな未来がすぐそこにある今、平和を築いていくのは私たちです。写真や映像からは感じ取れない被爆者の目で見た記憶は私たちが心で受け取り記憶として残していくしかありません。悲惨な過去が忘れ去られ、原爆の恐ろしさが軽くとらえられてしまえば原爆はまた落とされます。私たちにはそれを防ぐ使命があるのです。私は今後何があっても、生きる希望を失いながらも平和を望んだ方々のために懸命に生きていきます。悲惨な過去が忘れ去られ、同じ過ちが繰り返されてしまわないよう、私は心に刻んだ記憶を伝え続けます。いつか世界中の全ての人が笑える日が来ること諦めず願い続けます。

私が知らなかった長崎

報告者:岡久絢音さん(藤女子高等学校1年)

私は学校で様々な長崎と広島の原爆の歴史を学んできました。そして今回長崎に訪れて学校では習わなかった長崎の素晴らしさと悲惨さを知りました。

まず長崎は異国情緒あふれる街並みで、見慣れない風景が広がっており、周りを見回すことが多くありました。中でも、私の通う学校ではカトリックの精神を基盤としているため、大浦天主堂は特に注目していました。中に入った時、壁にはめ込まれたたくさんのステンドグラスを見て、その美しさに感動しました。前日の長崎歴史文化博物館の見学で、ガラスが当時とても貴重なものだったと知ったため、色とりどりのステンドグラスから漏れた外の光が壁や床に反射する光景はより印象に残りました。ガラスの希少性が高い中で素晴らしいステンドグラスの窓を作れたのは、海外と強く結びつき、宗教や文化を積極的に取り入れた長崎だからこそできたことだと思います。

次に、長崎原爆資料館やピースフォーラムでは、全部「もしもの自分」なんだと感じました。長崎原爆資料館を訪れて、はじめは小倉に落とされる予定だったB29が視界不良のため急遽投下目標地を長崎に変更したことを知りました。少し条件が違えばどこでも被爆地になりうると知り、私はとても他人事とは思えませんでした。またガイドの方が、核分裂を起こしたのは原子爆弾に大量に積まれていたプルトニウムのうちほんの一部だったとおっしゃっているのを聞きました。もし1%でも多く核分裂を起こしていたら今の長崎はどうなっているだろうと考えた瞬間、美しい街並みが一瞬にして更地になる光景が目に浮かび恐ろしくなりました。原爆資料館でやけどの痛みに苦しむ少年を見ました。ピースフォーラムで被爆者の体験談を聞きました。私は恐ろしさと同時にこれが実際に起きたのだと思い知らされました。

核兵器はまだなくなっていません。だんだんと少なくなりつつありますが、いまだに現役の核弾頭は9000個以上あります。長崎や広島に落とされた原爆の何倍もの威力を持つ兵器が沢山残っています。たとえ保持している理由が落とす為ではなく威嚇の為であっても、何があろうと落とさないという保証はないのです。長崎や広島で起きた悲劇がまたどこかで繰り返されるかもしれないのです。そんな世界が安全と言えるでしょうか。

長崎原爆資料館では、たくさんの外国人観光客が過去を知ろうと熱心にガイドの話を聞いている姿を目にしました。私も長崎に訪れて、テレビやニュースなどの映像だけではわからなかった現実を知ることができたと感じています。これが平和につながると考えます。様々な国や地域に住む人々が様々な歴史や文化を知り認め合い受け入れる、その意識だけでも世界は変わると信じています。

長崎派遣全般を通して

報告者:上坂芽生さん(札幌開成中等教育学校5年)

想像してみて下さい。当たり前の日々が一瞬にして奪われた生活を。明日が訪れないかもしれない恐怖の中で必死に生きる自分を。

長崎は多文化と自然が調和する唯一無二の街です。しかしこの地には、自由や日常を奪われた人々がなんとか生きようともがき続けた歴史があります。かつて長崎にいたキリシタンたちは、信仰のために命を捧げました。彼らはキリスト教の禁教により信仰の自由を奪われ、徹底的な弾圧を受け多くの犠牲を強いられました。それでも信念を貫き続けたキリシタンたちの姿は、私たちに信仰と平和の尊さを強く訴えています。大浦天主堂キリシタン博物館は、彼らの信仰を守り抜いた強い意志を象徴するとともに、信仰の違いが争いを生み出し尊重されることのなかった時代の悲劇から私たちに平和の作り方を教えてくれています。

そして79年前のあの日暑い夏の日に投下されたたった一発の原子爆弾は長崎の街を一瞬にして廃墟へと変貌させました。3000度にまで達した熱線が人々を炭化させ、すさまじい勢いの爆風が建物の中で渦を巻き、家族を奪い、友人を奪い、次々と尊い命が消えていきました。あちらこちらで死体が焼けるにおいが充満し、放射線の影響による原因不明の病気で人々が次々と犠牲になりました。被爆者の方々はあの日の感覚や感情を今も忘れたことがないと言います。「愚かな戦争はもうやめて一日でも早く核を廃絶して。」被爆者の声は私たちに託された平和への強い願いです。人類は何故平和を求めながらも互いに争い傷つけあうのでしょうか。傷つけ合いからは何も解決しないことを知っていながら、なぜ歴史を繰り返すのでしょうか。この問の答えを探し求めて私は長崎へ足を運びました。

私は昨年度から高校生平和大使として署名活動や被爆体験の伝承を通じて、核兵器のない平和な世界の実現に向けて活動しています。しかし、街頭で大きな声を張り上げて署名を募っても振り向いてくれる方はわずかです。この活動に本当に意味があるのか、戦争も被爆も経験していない私が活動しても平和の実現に貢献できるのだろうか、核兵器を取り巻く世界情勢が悪化していく中、私は自分の無力さに直面していました。しかしその時、私の目に飛び込んできたのは、長崎で平和な未来を見据えて活動する高校生や大学生たちの姿でした。札幌市平和訪問団として参加した長崎青少年ピースフォーラムでは、ほぼ全ての運営を私たちと同世代の彼らが行なっていました。祖母の被爆体験をもっと知りたいという一心で活動する被爆3世の高校生や、被爆について学んだからには伝える活動がしたいと考える学生たち、その姿からどれだけ小さな活動でも平和を願い行動することには意味があるのだと感じました。長崎が教えてくれたこと、それは平和を実現するためには、ひとりひとりの信念と行動が必要であり、小さな努力でも決して無力ではないということです。

核兵器の被害が国境を越えて及ぶように、平和を求める想いにも国境はありません。民族や国籍にかかわらず、私たち全員がこの地球の住民として平和を追求する責任を持っています。長崎で被爆したあと医師として被爆者救護に尽力した永井隆さんは、手をおろすことのできる人間が本当の勇気がある人という言葉を残しています。対立や武力、傷つけ合いで何が生まれるというのでしょうか。核兵器による緊張が続いている今、再び核兵器が使用される日がすぐそこに迫っているかもしれません。私たちはそのような現状を平和と呼んでいいのでしょうか。歴史から学び、それを今に生かすことができる私たちには歴史を繰り返さないために勇気を持つことが必要です。知った責任は広めることです。被爆者の戦争は、最後の核兵器がこの世界からなくなるその日まで決して終わることはありません。今こそ私たち一人一人がその声に応え、平和のバトンを後世につなげる時です。長崎で受け継いだこのバトンを、私はこれからも責任をもってつないでいきます。以上で報告を終わります。ご清聴ありがとうございました。

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